本物
2007年 03月 07日
プライドの事とイエス様は神様なのかは次にかきます。 仏教の神様と俺の信じてる神様は違うのか。 答えは、うんです。 ここにかくのは俺の信じてる事だから、おこったりしないでね。おしつけられてるとか感じないでね。 正直仏教の神様とか、イスラム教の神様とか、ヒンドゥー教の神様とかよく知らないんだ。仏教は、あきらめることによって救われる宗教で、イスラム教は、自分の行動によって儀式によって救われる宗教、ヒンドゥー教は大騒ぎして救われる宗教。こんなこと聞いたことあるけど、イエス様を信じてる俺が言ってもワンサイドだよね。もっと違う見方もあると思うし、これがすべてじゃないと思う。 だから自分の信じてる神様を紹介するね。昨日質問されて、お祈りしたんだ。そしたら答えてくれたよ。 そう、俺の信じてる神様は生きてる。 気づきさすれば、いろんなところに働いてるのを見ることができる。 太陽と地球の位置関係とかね。 それでその答えはこれだったんだ。
なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。 私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる。 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。 詩篇115
そう。 本当の神様は一人しかいない。それは疑問の余地はないと思うんだ。 じゃあどれが本物なのか。 それはここにかいてある。 偽者は、喋れないし見えないし聞こえないしかげないしさわれないし歩けないし声も出せない。 本物は喋れるし見えるし聞こえるしかげるしさわれるし歩けるし声も出せる。 そして神様は天にいる。仏像はたしかにできないよね。 偶像にはここにかいてあること一つもできないよね。 そして誰もがそれは人間につくられたものだって知ってるんだ。 俺が信じてる神様はそのどれもできるよ。 しっかり信じる前は、そうじゃなかった。俺にとって神様は、さわれないし、見れないし、喋れないし、動かない偶像と一緒だった。 だけど、俺が repent (change a way of thinking) 悔い改めをしたら、神様は上にかいてあるすべてを満たす存在になった。 ここが、キーポイント。 信じる瞬間には、目に見える証拠は関係ない。 この世界にはくさるほど、俺の信じてる神様がこの世界を創造した証拠も、生きてるって証拠も、目に見える形である。 だけどそこに生まれるのは、かっらぽの信仰だけなんだ。 自分の大好きな人が、自分の目に見えるときその人を信じるのは、「知ってる」ってことだけ。自分の目に見えないときに、その人のことを信じるのが、本当の「信じる」。自分の目に見えないとき、自分がその人をみてたときの「事実」は関係なくなる。あんなに優しくしてくれた、とかそういいうのは関係なく不安になる。 そのとき信じるかどうかを神様はみたい。だから俺は言ったんだ。馬鹿になんなきゃ信じれないって。馬鹿っていう言葉には、物事を曲がって見れないって意味がこもってると思うんだけど、みんなはどうおもうかな?
神の国とその義をまず求めなさい そうすればすべてのものは与えられる
ようするに、1、馬鹿になれ 2、裏切られることはないからね ってことじゃない?
神様は俺らが信じた後に働き出す。 俺は信じた。そして神様がみんなの中に働きだしていることを信じている。彼は、さわるししゃべるし歩くしみるしにおいもかぐよ。 本当の神様はこう言ってる。 信じろ。 俺は裏ぎらない。 俺は裏切られたことないな。みんなの信じてる神様は? それとも裏切られたって感じちゃうまでただの偶像を信じてみたことはありますか? lukewarm 生ぬるいままじゃ真実は見つからない。真剣にならないと。 明日はどんな答えが与えられるかな。 楽しみだ!
なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。 私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる。 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。 詩篇115
そう。 本当の神様は一人しかいない。それは疑問の余地はないと思うんだ。 じゃあどれが本物なのか。 それはここにかいてある。 偽者は、喋れないし見えないし聞こえないしかげないしさわれないし歩けないし声も出せない。 本物は喋れるし見えるし聞こえるしかげるしさわれるし歩けるし声も出せる。 そして神様は天にいる。仏像はたしかにできないよね。 偶像にはここにかいてあること一つもできないよね。 そして誰もがそれは人間につくられたものだって知ってるんだ。 俺が信じてる神様はそのどれもできるよ。 しっかり信じる前は、そうじゃなかった。俺にとって神様は、さわれないし、見れないし、喋れないし、動かない偶像と一緒だった。 だけど、俺が repent (change a way of thinking) 悔い改めをしたら、神様は上にかいてあるすべてを満たす存在になった。 ここが、キーポイント。 信じる瞬間には、目に見える証拠は関係ない。 この世界にはくさるほど、俺の信じてる神様がこの世界を創造した証拠も、生きてるって証拠も、目に見える形である。 だけどそこに生まれるのは、かっらぽの信仰だけなんだ。 自分の大好きな人が、自分の目に見えるときその人を信じるのは、「知ってる」ってことだけ。自分の目に見えないときに、その人のことを信じるのが、本当の「信じる」。自分の目に見えないとき、自分がその人をみてたときの「事実」は関係なくなる。あんなに優しくしてくれた、とかそういいうのは関係なく不安になる。 そのとき信じるかどうかを神様はみたい。だから俺は言ったんだ。馬鹿になんなきゃ信じれないって。馬鹿っていう言葉には、物事を曲がって見れないって意味がこもってると思うんだけど、みんなはどうおもうかな?
神の国とその義をまず求めなさい そうすればすべてのものは与えられる
ようするに、1、馬鹿になれ 2、裏切られることはないからね ってことじゃない?
神様は俺らが信じた後に働き出す。 俺は信じた。そして神様がみんなの中に働きだしていることを信じている。彼は、さわるししゃべるし歩くしみるしにおいもかぐよ。 本当の神様はこう言ってる。 信じろ。 俺は裏ぎらない。 俺は裏切られたことないな。みんなの信じてる神様は? それとも裏切られたって感じちゃうまでただの偶像を信じてみたことはありますか? lukewarm 生ぬるいままじゃ真実は見つからない。真剣にならないと。 明日はどんな答えが与えられるかな。 楽しみだ!
by yfa15904
| 2007-03-07 15:47